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2008年6月

2008年6月24日 (火)

日本人のしつけは向上したか

日本人のしつけは衰退したか―「教育する家族」のゆくえ (講談社現代新書 (1448))先日、久々に良本に出会いました。

日本人のしつけは衰退したか―「教育する家族」のゆくえ 広田照幸著 (講談社現代新書 (1448))

1999年に発行された本ですが、先日の秋葉原事件に対するマスコミ報道に対しても、的確に批判されている良本です。

全体にわたるテーマはまさしく標題にあるとおりで、一貫して現在と過去の「しつけ」の経歴について詳述されているのみで、よくある教育書のような「○○であるべきだ」とか「○○してはいけない」とかいう論調は一切ありません。

あるのは昨今のマスコミや教育評論家たちが口をそろえて「家庭の教育力が低下している」「昔の方がしつけがしっかりできていた」という論調に対して真っ向から疑問を呈し、これを否定しています。

確かに「昔」とはどれくらい昔かわからないし、どの階層のどのような「しつけ」を言っているのかよくわからない。

この本では「昔」も時系列的にならべられ、家庭教育vs学校教育の変遷を如実に描き出しているとことが目からうろこでした。

例えば、本当に昔はしつけがしっかりしていたかというと、近代化の興る明治期には、ほとんどの庶民は貧しく、子育てそのものが農作業や手工業など家庭の仕事より軽視されており、教育という教育はせず子どもの世話は専ら年長の子どもか老人か、まともな生産ができない人間におしつけられる底辺の仕事であったということです。

そして、近代化を講じる学校教育は、仕事の手となる子供を取られるという意味で、家庭と対立していたという。さらに時代が進むと、なんとか読、書、算ができる程度に学校へ行かせるようになるが、まだ家庭は学校になんの期待も寄せていなかった。と、つまり村社会においては親と同じ農林漁業を営むため、学校教育が将来の仕事と直結しないため「しつけ」どころではなかったということです。村で育った子供はたまに都会に出ると挨拶の仕方も口の訊き方もろくに知らず、手も洗わずに飯を食う子供ばかりだったということで、親にしかられるのは、手を洗わないのではなく、使い終わった鍬を洗わないときだといいます。つまり個人の振る舞いよりも、食い扶持となる仕事道具の扱いの方で叱られるという構造で、これを持って「しつけ」というのか甚だ疑問だと思います。

確かに昔の日本はそんな状態で、家庭は教育をせず、地域というか村社会が独特の閉鎖的ルールで集団的人間形成を担ってきたといえます。

学校教育と家庭の教育が一致し始めたのは戦前の「新中間層」と呼ばれる階層の人々で、戦後の中産階級とほぼ一致します。

つまり、生活が豊かになり、中流意識が芽生え出すと、家庭での教育にも力がそそがれるようになったということです。

面白いことに1970年の調査でも家庭のしつけについて「昔の方がよかった」と答える比率が、そうでない比率の倍ほどもあったといいます。結局のところ「昔の方がよかった」は単なる幻想であり、平安時代の文献にもみられる「最近の若い者は・・・」というぼやきと同種であるということです。

実際、「殺人による検挙少年数の推移」は1960年代をピークに減少の一途をたどっているという数値が指し示されており、凶悪少年犯罪が増えているという印象はマスコミ報道の弊害であるとされています。

近年はしつけが衰退するどころか、「教育する家庭」が増え、史上最も「しつけ」や「家庭教育」に力点が置かれている時代であるという著者の力説には説得力があります。

問題としては、逆に家庭の外に教育の場がなく、学校であったり、塾であったり、スポーツ教室であっても、最終的な教育の責任者は親に帰着せざるをえない状態にあることだといいます。

例えば、息子の非行を憂いた父親が教育カウンセラーにまで相談に行き「親子の会話を大切にしてください」とアドバイスをしたがために、父親はますます息子に手をかけるようになり、逃げ場のなくなった息子がついに父親にキレたという悲劇が例題にされていましたが、これによく似たコメントを最近のニュース番組でも見たような気がします。

秋葉原事件の報道に対して「親子の会話のない家庭に、このような子供が育つ」「父親不在が原因」「なんでも話せる親子でないといけない」「親子の会話さえしっかりできていれば未然に防げた」などといい加減なコメントをよく聞いたものです。

根本的にこのような幻想が危険であると著者は述べています。

頼るべき者、相談できる者は確かに必要ですが、それを家庭内にだけ求めた時、もしその家庭が不和になれば何もかもが一気に崩れ去る危険があるのです。

となれば家庭内の小さなミスが、何か秋葉原事件のような重大な事件につながるのではないかという無用な不安までかき立ててしまいます。また社会全体が、子供の小さな素行の悪さをみるとそれを育てた親の全人格までを否定するような責任を求めているのではないだろうか?と著者はそんな警鐘をならしています。

確かに現在の教育やしつけをとりまく世間の見方は既にそのような厳しい冷徹な目で満たされています。

しかし、それはあくまでマスコミによる無用な不安の煽りであり、幻想でしかありません。

さらに個人における幻想にも注意を促しています。

「私の少年の頃には、素手でケンカした」とか「いじめられても自殺するものなんかいなかった」などとといって現代の少年がどれだけ危険かと認識するような発言がマスコミにも見られますが、これについても著者は、別のレベルの事象を比べて自分の過去を美化しているに過ぎないと指摘しています。つまり、報道されるレベルの衝撃的な事件と、平凡な自分の人生経験の一部を比べて「今の少年は危険」「昔はよかった」と決めつけているのです。そんな衝撃的な体験をもった人がそうそういても困りますよね。まったく納得のいく話です。

著者は最後に読者に向かって「完璧な親」を目指さない事を提唱しています。所詮、完璧な人間などいないのです。だから自分の子供を完璧に育てられるわけでもなく、一つのミスが重大な欠陥を生むわけでもないので、「完璧な親」像からの減点方式はやめ、できたことに対する加点方式でいきましょうという、親の心の持ち用を優しく示してくれています。

わたしはこの本を読んで、目からうろこが落ちるとともに、教育報道においてもマスコミ報道の稚拙さと大罪をかいま見たような気がしました。

結論としては、日本人のしつけはますます向上しており、家庭の教育力も史上最高潮に達しているということです。

現代の問題点は教育の責任の一手をすべて家庭が担おうとし、そして担いきれていないところにあるということです。そして世間もすべて家庭の責任に押しつけようとしている重大な危険性があるという問題点です。

それでいてもなお「家庭での父親の不在」原罪主義や「親子の会話」史上主義が横行しています。

しかし、これは無知なマスコミとバカな官僚どものネガティブキャンペーンでしかありません。

育ちのいい彼らは、家庭の教育力を崇高し、教育力のない家庭を攻撃するためにこのようなキャンペーンをうつのです。

それは教育熱心な母親が、素行の悪い友達を見つけて「○○くんと遊んではいけません」と注意することと同質です。

著者の警鐘は、このような排他的な教育観念の蔓延に対して鳴らされています。

そしてこのような排他的な社会構造がいつしか凶悪犯罪を生み、それに怯える社会を形作っていっているのではないでしょうか?

みんな、マスコミに騙されるな!

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2008年6月17日 (火)

尖閣諸島と竹島

先日から尖閣諸島付近での台湾船衝突問題で、台湾の立法院は国防省に戦艦派遣をも打診したという話が出ています。

親日派といわれていた台湾からこれほど反日感情が溢れてくるとは日本人は誰も考えてなかったのではないでしょうか?

そんな折り、こんな記事を見つけました。

外交部「ガス田問題で重要な進展」―近日中に合意か

中国外交部の姜瑜報道官は16日、日中間の懸案になっている東シナ海のガス田開発問題で「日中の協議は重要な進展を得た」と発言した。

-中国情報局-

なにがどうなったのかこの記事ではわかりませんが、どうやら東シナ海の海上ガス田問題はなんらかの合意に達したようです。

これは日本にとって喜ぶべきことなんでしょうか。

そこには

日本は、両国の陸地部分の中間線をEEZの境界線と主張。一方、中国は、完全に陸地である中国大陸と、島が点在するだけの南西諸島の中間を境界線にすることはおかしいなどとして、両国間の海底で最も深く、フィリピンプレートが大陸プレートに沈み込んでいる場所の沖縄トラフが境界線と主張している。中国側主張によると、日本が主張するEEZは大幅に削られることになる。

  中国側の主張は、大陸棚の端まで沿岸国の権利がある「自然延長論」を適用したものだが、日本側は◆1960年代までの過去の国際法に基づく考え◆1982年に採択された国連海洋法条約の関連規定とその後の国際判例にもとづけば、東シナ海のケースに「自然延長論」は適用されない――と反論している。

とありますが、国際法に則った日本側の主張に正当性があるように見えます。そもそも「自然延長論」はあいまいで紛争の種を作るだけです。

現在の科学ではたまたま海底地形を計測することまでが可能になりましたが、大陸棚がどこまであるかわからなかったらどうしてたつもりでしょうか?また逆に将来、太平洋プレートが中国大陸のどのあたりまで沈み込んでいるかまでわかるようになると、例えばプレートが先日地震のあったチベットの地底まで確認された場合、「日本列島が乗る太平洋プレートが沈み込んでいるチベット付近までを日本の領土とする」という「自然延長説」も通るようになります。

というくらい中国の主張は荒唐無稽な主張だということです。「自然」という概念は人間が計測できる技術的な都合でいくらでも変わります。

中国政府は国際法を遵守して、国際法の根拠によって主張してもらいたいものです。

中国側の「自然延長説」を適用すると尖閣諸島は中国の領土となるそうです。

台湾は中国の一部という考えからいくと、台湾政府は中国側の「自然延長説」を支持するのでしょうか?その辺の関連性はよくわかりませんが、今回の日台問題については中国政府は静観している感じです。

一方、韓国との領有権論争のある竹島問題ですが、こちらも落としどころが見つかっていません。

先日、部屋を掃除しているとたまたま、10年ほど前にソウルで買った韓国の地図が出てきたのでボーっと眺めてました。そうすると韓国の地図には、ウルルン島の横に当たり前のようにドク島(独島:竹島の韓国名)が載っていました。しかも灯台の地図記号まで入っています。

おそらく韓国の人々にとってはドク島が韓国領土であることは当たり前の自明の事実でなにも韓国の領土であることをわざわざ主張しなくてもいいと思っていたことでしょう。そんな折り突然、日本が領有権を主張し、国際法を根拠に持ち出してきたから堪らないというところだと思います。

そもそも日本は5年ほど前までは国土地理院でさえ竹島の5万分の1地形図を発行してなかったのですから、日本人の方が自国の領地であることを忘れていたんじゃないかと思えてなりません。

外務省に竹島問題の経緯が書かれていますが、結局よくわかりませんし、韓国の主張ももっともだと思っていまいます。

しかし、自分の領土だと当然思っていた韓国は、史実としては日本と五分としても、法的根拠に乏しい部分、立場的に苦しいところだと思います。

ここで韓国の竹島問題と中国の尖閣諸島問題で共通する両国の態度は、国際法上の根拠を示さず、独自の理屈で理路整然と領有権を主張しているところです。法的根拠で争えば負けることがわかっているから、なんとか別の理論ではぐらかそうというわけです。

おそらくこんなことをしているかぎりは埒があかないと思います。

解決には国連や第三者の介入が必要と思われますが、領土問題は紛争の種であり、国際的には価値の低い領土であるため、どこも介入したがりません。

チベットのように埋蔵資源が豊富な場合はいらぬ世話でもいろんな国が介入してくるのでしょうが、尖閣諸島や竹島はアメリカも食わないというところでしょう。

わたしも日本人ですから、竹島や尖閣諸島や北方領土は早く日本の領土だと堂々と言いたいところですが、国際的ななんらかの価値が出てくるまではこのままかなぁっと思います。

逆に本気でこの問題を動かしたいなら、中国がガス田を掘るように、それ以上のなんらかのドラスティックなアクションが必要なのではないでしょうか?

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2008年6月15日 (日)

地震保険って意味あるの?(2)

前回の続きです

地震保険って意味あるの?(1)

火災保険などを含む損害保険に関する控除は平成18年度で終わり、変わりに平成19年度からは地震保険控除が始まりました。
地震保険控除額は損害保険控除額と同額で最大、所得税から50,000円、住民税から25,000円が控除されます。
ただし、平成18年以前に10年以上の長期補償のある火災保険で、その後保険内容に変更なく継続する場合は損害保険控除と地震保険の加入もあればこれらを合算した上で、上記の上限額まで控除の対象にできます。

さて、一方地震保険の支払われ方ですが、地震保険は火災・家財保険の契約額に応じ、最大、建物5000万円、家財1000万円まで補償させることができます。

とまでは保険屋さんのホームページなどで出ている情報です。

地震保険にはますます入りやすくなってきているということでしょうか。

さて、では入る価値があるのかないのか、その本質を見てみましょう。

建物・家財への保険金は建物・家財の時価評価額に対してかけることができるものです。しかも土地にはかけられず建物だけの値段です。

例えば、木造一戸建ての場合では土地は含まず、建物だけの新築価格に「建築費倍率」というものというものをかけ、その後「経年減価率」をかけ、建物の評価額をだします(建物の簡易評価法参照)。

新築一戸建て3000万円で建物代がその半分の1500万円の場合、新築なので建築費倍率の係数は1.00で経年減価率もないのでそのまま1500万円の評価額。新築当時同じく1500円で築30年なら1280万円くらいなります。

しかし一方マンションの場合、3000万円で新築マンションを購入した場合、区分所有分の土地代を差し引かれ、建物共有部分の額を差し引かれ、専有床部分だけに対する評価額となり、新築で買ったばかりなのに1000万円を切ることもあります。経年減価率をかけると築何十年したマンションでは対した額の保険をかけることができません。

さて以上は火災保険の場合の額ですが、地震保険はこの額を上限とした額のさらに30~50%に相当する範囲の額で保険金額を設定しなければいけないことになっているのです。

つまり単純に考えると3000万円で戸建てを購入しても750万円しか補償されないことになります。マンションの場合では500万円もありません。

さらにさらに支払いの際ですが、地震保険は全損・半損・一部損で保険契約額の100%・50%・5%の支払いが明確に決まっています。その支払いの額には「時価が限度」というただし書きがついていますが、ここでいう時価もおそらく経年減価率がかけられるのだと思います。

建物の全損が認められるのは、建物の時価の50%以上が損壊、もしくは70%以上が流失もしくは焼失した場合だけに認められます。

全損でないかぎり半損や一部損では保険金額がほとんど支払われないことを意味しています。例えば1500万円の評価額の家が築10年後に地震で半損した場合はその額の半分の時価の半分なので320万円前後です。

マンションの場合は全損はほとんど考えられないので最悪半損であっても、築10年後に罹災した場合には200万円も支払われない可能性があります。一部損に至っては20万円前後です。

そんな金額でははっきり言って罹災した生活を立て直すことは不可能ではないでしょうか。

さらに地震保険には但し書きがついていて、大規模地震の想定被害額を5.5兆円と見積もっているため、支払い合計がそれを越える場合にはさらに目減りすることが明記されています。

さてさてそうなってくると、地震保険。果たして入る価値があるのでしょうか?

保険の掛け金からみると、1500万円の家で10年掛けていると例えば昨日地震が起こった宮城県の一戸建てではだいたい17万円くらいの拠出になります。(地震保険の保険料:財務省参照)それくらいの掛け金で300万円程度の補償があるので意味があるのかもしれませんが、火災保険に比べると割は悪いです。

特に耐震や免震・制震建築のしっかりした最近の新築マンションでは建物の直下の断層がずれない限りは倒壊は考えられませんし、専有部分の被害では一部損か酷くても半損になる程度しか考えにくいので、もっと割が悪くなるでしょう。

マンションでは特に共有部分の建物躯体に損傷があるケースが多く考えられるので、マンション管理組合などでマンション全体の地震保険に加入することには意味がありそうです。

とにかくこれ以上の補償がないのが地震保険です。

地震保険は補償を厚くするような「特約」もありませんし、「お得な地震保険」というものもありません。地震という大規模災害に備えるが故に、誰に対しても補償の厚遇やお得な制度は一切なく、平等で公明正大な保険と言えるのです。

その反面、補償も控えめにされる傾向はありますが、わたしはこれらの保険制度全体は目的にかなり適応した優れた保険だと評価しています。

だからその反面、「お得な地震保険」というようなフレーズを謳う保険会社があればその会社は消費者の無知に付け入ってくる会社だと保険会社全体を疑ってかかる必要があります。

地震保険は保険会社にとっては保険契約はとれるが、補償責任がすべて再保険会社に転嫁できるのでおいしい保険なのかもしれません。しかしだからこそ、その保険理念の公明正大さをアピールし、地震に備える本来の防災意識に訴える必要があるのです。

いずれにせよ地震被害を補償できるのは地震保険しかないのですから。

さて、わたしの場合ですが、おそらく新築マンションの購入のときだけは地震保険には加入しないと思います。マンション管理組合で全体の地震保険に加入することは賛成しますが、耐震建築のマンションに個別に地震保険に入るメリットはあまりないように感じるわけです。

わたしは関西に在住ですが、将来大規模震災が予想されている南海・東南海地震の発生確率は向こう30年で50%越えている地域です。しかしこの予想は海溝型の地震の予想で、このタイプの地震では木造家屋の倒壊はあっても鉄筋堅牢建物の倒壊はそれほど考えられません。

怖いのは直下型ですが、これだけはわかりませんが、少なくとも地形学の知識で、活断層だろうが死活断層だろうが、断層上の物件だけは買わないようにしようと思います。あとは第四紀の旧河道や後背湿地にあたる地形は避けたいですね。

とにもかくにも地震に罹災してしまっては地震保険で補償される額では生活を立て直すことができるかは考えにくいところです。最近は「耐震改修促進事業制度」により土地の「揺れやすさマップ」というものも各自治体で公開されています。これらの情報をつかみ、居住する地域の震度を予想するのも一つの判断材料です。

そういった意味で、地震保険に加入するかどうかという判断に合わせて、どのように地震に備えるかは、結局個人の自己責任に委ねられるのだと思います。

「自分の身は自分で守れ」ですね。

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2008年6月12日 (木)

地震保険って意味あるの?(1)

大規模な地震のときには保険会社ごと被害受けてるから、いざというときには地震保険だろうがなんだろうが保険金なんて支払われないんじゃないかっていう疑問がずっとありました。地震保険ってホントに意味あるんでしょうか?

でも地震というテーマは地理バカにとっては大変興味あるテーマですが、保険となるとわたしも含めて地理屋には苦手な分野ではないでしょうか。

そこで地震保険。牛乳が好きで、コーヒーが嫌いな人がコーヒー牛乳を飲んだ時のような感覚でご覧になってください。

地震保険は火災保険に付加して加入する任意保険です。

というのは、火災保険は地震による火災や津波による流失は補償されません。

「地震保険」は、住居に使用される建物および家財を対象とし、地震、噴火またはこれらによる津波によって発生した、火災・損壊・埋没・流失による損害を補償します。
この保険は、「地震保険に関する法律」に基づき、被災者の生活の安定に資することを目的として、その責任の一部を再保険として政府が引き受けている、非常に公共性の強い保険です。

-損保ジャパン-

ということです。

火災保険や普通の保険では地震のような大規模災害では保険会社の補償能力を上回る被害が想定されます。一度に一地域の何万世帯から火災保険の保険請求があったらおそらく保険会社は支払えずに潰れてしまうでしょう。

個人的には保険会社なんて人の不幸や不安に付け入って、利益を得るいけ好かない業種なので潰れても構わないと思っていますが、保険加入者としてはそれで保険金が支払わなければ保険をかけている意味がありませんから、はじめから支払えないことが想定されるような保険には入りたくありません。

地震保険は政府の「地震保険に関する法律」によってその辺の抜かりがないよう巧みな仕組みが施されています。

ちなみに「地震保険に関する法律」は1964年の新潟地震を契機とし、その2年後にはこの法律が制定されたそうです。

まずは民間保険会社は「日本地震再保険株式会社」という会社に再保険されます。再保険とは保険の保険で、保険会社が万が一保険金を支払わなければなくなった場合に保険金が支払われます。ってなんだかややこしいですね。

さらにこの日本地震再保険株式会社は、保険責任を均一化して元受の民間保険会社と政府にそれぞれの保険限度額に応じて再々保険をかけています。つまり、地震で保険会社が万が一保険金を支払わなければなくなった場合に日本地震再保険株式会社が大量の保険金を支払う必要があるので、その場合、政府と民間保険会社が限度額分の保険金を日本地震再保険株式会社に支払うことによって、民間保険会社が被保険者に保険金を支払うことができるという仕組みです・・・細かく考えるとわけがわかんなくなりますね。

とりあえずそんな巧みな仕組みのおかげで関東大震災を想定した5.5兆円という被害額を補償できる準備があるそうです。

ちなみに日本地震再保険株式会社の19年度末の保有資産は9559億円にのぼり昨年度の5.2%増だということです。

もともとが大規模地震に備えるために設立された会社なので、資産が増え続けて当然なのですが、同じ備える目的で存在するはずの社会保険庁よりよほど優秀です。

社会保障も日本地震再保険株式会社に任せてはどうでしょうか?

とまあ余談ですが、どちらも政府主導で設立されたのは同じですが、運営する人事が日本地震再保険株式会社には大手民間保険会社の元重役が取締役になることが常のようで、結構民間の理論で動いているようで、この辺が社保庁とはえらい違いなのでしょう。

しかし地震保険を公務員の食いモノにしなかったということは当時の政府はまだ腐ってなかったのでしょう。関心カンシン。

そんなわけで地震保険はどこの民間会社で加入しても条件や支払額はまったく同じです。決まるのは被保険者がどこのどんな建物に住んでいるのかってことだけです。

ちなみに地震保険は火災保険に付加して加入する保険なので、住居を所有していないと加入できません。賃貸暮らしのわたしには縁のない話です。

それでもそのときになったら加入するかどうかを突如として迫られるのです。とりあえずこういう事を考えとけば保険の前の心の保険ということで備えあれば憂いなしですね。

ちょっと長くなったので続きは次回に繰り越します。

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2008年6月 9日 (月)

熊野TBのブログが凄い

「熊野」とは紀伊半島南部に位置する主に「熊野三山」を指す地名です。

「くまの」と読めば世界遺産にも登録された熊野古道の行き着く先のこと。

ちなみに「ゆや」と読めば能を代表するお話のひとつで、なんでも人の名前が由来だとか。どうやら熊野信仰とはあまり関係ないようです。しかし大阪府堺市には熊野街道(紀伊路)沿いに「熊野町」と書いて「ゆやちょう」と読ませる地名があり、なんだかややこしいです。

さてその熊野地域の中心地、和歌山県田辺市の観光協会に「熊野ツーリズムビューロー」という組織があります。

わたしは地図屋の仕事の関係上、観光協会さんや観光連盟さんにはよくお世話になります。そんなおりいろいろ調べモノをしていたらこの熊野TBのホームページに行き着きました。

ここの職員さんがブログを書いていますが、これもなかなか観光協会としては非常に面白いブログなのですが、それよりなによりフランス人のメラニープルーフさんという客員委託職員さんなのでしょうか、その方が書いてあるブログが大変興味深くはまりこんでしまいました。

ブログはフランス語で書かれてあり、フランス人に向けて熊野の現地から発信されているものです。もちろんわたしはフランス語は一切わかりませんが、そこに掲載された写真が見ごたえあります。

熊野古道は確かに文化的な背景が濃く、その歴史ばかりでなく現存する古道や信仰にちなんだ景観に厳かな雰囲気が漂い、非常に興味深いのは確かなのですが、なんで世界遺産に登録されたのかいまいちよくわかっていませんでした。修験道なんて仏教と神道が混合した日本独特の山岳信仰が、外国の人々に理解されるのか甚だ疑問だったのですが、このブログの写真を見ているだけで、ヨーロッパ人の視点がなんとなく見えてくるような気がしました。

ん~言葉では言い表されないなんともいえないニュアンスが、なんとなくメラニーさんの写真から伝わってきます。外国人はこんな風景に興味を示すんだと、ふと納得させられました。

こういうブログを田辺市の観光ビューローが発信しているという事実にも関心させられました。熊野TBは本当の意味で海外から観光客を引き寄せることに一役買っているのではないでしょうか?

日本には幾多の観光協会がありますが、それらの組織が本当に地域の観光振興に役立っているかどうか、疑問に思う組織がほとんどのように思います。

奈良県の「せんとくん」に見られるように本当の観光振興とはちょっと違うんじゃない?っていう行政サイドで自己完結してる観光振興組織が結構あると思います。

あなたの街の観光協会がどんな観光PRを行なっているか、観光協会やビューローのホームページを一度じっくり見てみるのはいかがでしょうか?

(お断り:わたしは熊野BTの関係者でも、メラニープルーフさんの知り合いでもなんでもございません。このブログはわたしの一方的な評価です。ちなみにフランス語のためブログへのトラックバックがよくわかりませんでした。もし熊野BTの方がこのブログを見られましたら気を悪くなさらないでください)

そういえば熊野古道を歩くと頭が良くなるという研究結果を見たこともあります。熊野三山には何度か足を運びましたが、熊野古道は大門坂を30分程度歩いたことくらいしかありません。

いつかはきちんと何日もかけて熊野古道歩いてみたいものです。

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2008年6月 5日 (木)

洞爺湖サミットってなに?

洞爺湖サミットは先進8ヶ国の首脳が顔をつきあわせ、政治、経済、環境、防災、テロ対策などあらゆる国際問題を話し合う会議です。今年の七夕の開催だそうです。

現在、福田総理が欧州を歴訪ということで、どうやらサミットの事前調整のようですが、食料高騰問題・温室効果ガス削減・エネルギー高騰問題などが主な議題になりそうです。

その中でもかなり環境問題が意識されているようで、特に洞爺湖サミットの報道拠点となる国際メディアセンターが北海道虻田郡留寿都村字泉川(ルスツリゾート敷地内)に建設され、外壁にはソーラーパネルが張り巡らされたり、冷房は雪でおこなったり、外壁外にはナナカマドのような植物を植えたりと、環境への配慮がかなりアピールポイントの建物だそうです。

なんとその建設費は北海道開発局から30億円支出されているそうです。そして一番驚かされたのは、サミット開催後はすぐさま解体されるとか?未確認情報ですが、なんでもセキュリティ上の問題があるとかで一般公開はされないという。

これって・・・・本当に環境にやさしいのでしょうかね?サミットでいい顔するために国民の血税30億円使い捨てってあまりに非道くないでしょうか?

解体するなら、そもそも新しいハコ物作らずに地元の施設を有効利用した方がよほどエコです。多分小学生でもわかる話だと思います。

金額のレベルは違いますが、行政機関が調達した印刷物の古紙配合率の偽装が発覚したために、印刷物を刷り直しさせたという話を一時期よく耳にしました。そもそもパルプという資源を節約する目的で決めたルールなのに、ルールを守ることが目的化して、余計にパルプを使って刷り直しまでさせるという本末転倒が行政では日常茶飯事に起こります。

どこかおかしくないでしょうか?いや絶対におかしいです。

話を洞爺湖サミットに戻しますが、そもそも洞爺湖サミットってなんで開催するんでしょうか?

環境に悪いハコ物を作って、ガソリン高騰に苦しむ国民からガソリン税を搾取して、30億円の血税を捨て、セキュリティの建前だけでまた税金を使ってハコ物を解体して。

こんなことをやっている国の首長が、環境問題やらエネルギー問題やらテロ対策やらを話し合う国際会議の議長をつとめられるんでしょうか?不思議でなりません。

また昨日あたりからそんな首長を取り巻くモラルハザードな官僚たちが温室効果ガス排出権について言及していました。まったくため息が出るばかりです。

温暖化対策「福田ビジョン」、排出量取引を明記 -日経エコロミー-

ちょうど私が主張していた話「買ってはならない!カーボンオフセット」に近しい力強い論評が、またまた恐れ多いのですが池田信夫blog「排出権取引に反対する」に詳しく書かれていました。

やっぱり温室効果ガスも温暖化も排出量取引もどこかおかしいです。第一、この3つを関連付ける科学的根拠からして怪しいですから。

排出量取引を経済ベースに乗せたあとで、2013年には無益な排出権を血税から数兆円も出して買って京都議定書ギリギリセーフにしようとしているのでしょうか?

2011年には国債の大量償還があり、2012年には団塊世代への年金支出が始まり、2013年には温室効果ガス排出権の買い取りがある・・・・。

IMFが密かに日本破綻のシナリオを書いているという噂もあながち頷けるような気がします。

そんなシナリオにまっしぐらの(ように見える?)洞爺湖サミットっていったい何なんでしょう・・・・?

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2008年6月 1日 (日)

源氏物語に見る地理感

今年は源氏物語千年紀です。

紫式部が書いた恋愛ドロドロの小説は、今だその面白さが色褪せません。
それはいわゆる恋愛モノという物語においてあらゆる要素が網羅され、人が恋をすることにまつわるあらゆる普遍性に既に行き着いた作品だからだと思います。
源氏物語以降の恋愛モノはすべて源氏物語の二番煎じだと言っても過言ではないかもしれません。

しかし私はそんな源氏物語に、空間的な広がりがあることに興味を持っています。

物語中で最も好きなくだりが、源氏が都を追われ、須磨に長逗留しないといけなくなったとき、これを励ましに旧知の親友である頭中将(当時、権中納言)が須磨下りまで訪れるというシーンです。

当時朝廷で出世街道を順調に歩んでいた頭中将が、朝廷の反感を買って都を追われた源氏に会いに行くことは、キャリアに傷がつく可能性が充分にある中での行為です。かつてのライバルに激励と発破をかけにいくシーンは頭中将のなかなか男気を見たような気がしました。ドロドロの恋愛劇の物語中、非常に爽やかなこのシーンが好きです。

話を戻しますが、まず源氏が須磨に下る際、京の都を夜更けに出立し、淀川を下り、難波の堀江から海に出て、日が西に傾きかける頃に須磨の浦に着いたとあります。

すると当時は京都から須磨まで船を一回乗り継いで、約15時間前後で須磨についたことになります。これを早いと見るか遅いとみるかですが、水上ルートだと100km弱くらいの距離になりますから、時速7km程度だと思われます。歩くよりちょっと早いくらいのペースでしょうか。

参考までに車の場合では高速道路も使ってスムーズに行けば1時間半くらいで移動できます。

この距離は源氏にとってもそれほど遠くない距離という認識があったようです。

わたしは、このような空間的感覚が平安の宮中の女性、紫式部に備わっていたことにまず驚きました。

現代でも京都-須磨間の時間距離を正確に捉えている女性は少ないのではないでしょうか。

源氏物語にはこの他にも明石、太宰府、比叡山、初瀬、越前、常陸といった地名が登場します。

紫式部は滋賀県の石山寺でこの源氏物語を書いたとされますが、父 藤原為時の都合で越前の国に数年間住んでいたようです。

おそらく須磨や明石、また比叡山や初瀬参りには訪れたことがあるのでしょう。移動シーンがかなり詳細に書かれています。

玉鬘(たまかずら)の章では太宰府が登場しますが、玉鬘が九州から畿内へ夜逃げするシーンは時間的描写がうまくごまかされています。

越前や常陸からは移動シーンは描写されません。

しかし、紫式部その人がこれだけの世界観を持っているというのが驚きですし、源氏物語の面白さのはこのダイナミックさも重要なスパイスとなっています。おそらく平安当時の宮中女性の間ではこのような世界観は非常に新鮮に映ったに違いありません。

一方、源氏物語終盤の「宇治十帖」についてはそのような世界観が一切なくなってしまいます。時代も源氏の次の世代に移り、地理的空間も北は比叡山から南は長谷寺まで、物語の視点はほとんど宇治から動かなくなります。

したがって個人的には「宇治十帖」は好きではありません。ちょっと源氏物語本来の趣に欠けると思います。

ここからはわたしの独断の感想ですが、わたしは源氏物語の作者が複数いるという学説を指示します。その根拠は先に述べたとおり、紫式部のもつメンタルマップというか、その世界観と「宇治十帖」があまりにかけ離れているため、宇治十帖は別の人物が書いたと思われます。おそらく紫式部から引き継いだ第二の作者が、紫式部の恋愛劇を受け継いで書くことはできても地理的感覚まで引き継ぐことはできなかったんだと思います。

それは地理的感覚とは経験に基づく能力だからです。

結局はそれが言いたかっただけかもしれませんが、源氏物語が世界に誇るの日本最古の最高傑作であることは間違いありません。

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