日本人のしつけは向上したか
日本人のしつけは衰退したか―「教育する家族」のゆくえ 広田照幸著 (講談社現代新書 (1448))
1999年に発行された本ですが、先日の秋葉原事件に対するマスコミ報道に対しても、的確に批判されている良本です。
全体にわたるテーマはまさしく標題にあるとおりで、一貫して現在と過去の「しつけ」の経歴について詳述されているのみで、よくある教育書のような「○○であるべきだ」とか「○○してはいけない」とかいう論調は一切ありません。
あるのは昨今のマスコミや教育評論家たちが口をそろえて「家庭の教育力が低下している」「昔の方がしつけがしっかりできていた」という論調に対して真っ向から疑問を呈し、これを否定しています。
確かに「昔」とはどれくらい昔かわからないし、どの階層のどのような「しつけ」を言っているのかよくわからない。
この本では「昔」も時系列的にならべられ、家庭教育vs学校教育の変遷を如実に描き出しているとことが目からうろこでした。
例えば、本当に昔はしつけがしっかりしていたかというと、近代化の興る明治期には、ほとんどの庶民は貧しく、子育てそのものが農作業や手工業など家庭の仕事より軽視されており、教育という教育はせず子どもの世話は専ら年長の子どもか老人か、まともな生産ができない人間におしつけられる底辺の仕事であったということです。
そして、近代化を講じる学校教育は、仕事の手となる子供を取られるという意味で、家庭と対立していたという。さらに時代が進むと、なんとか読、書、算ができる程度に学校へ行かせるようになるが、まだ家庭は学校になんの期待も寄せていなかった。と、つまり村社会においては親と同じ農林漁業を営むため、学校教育が将来の仕事と直結しないため「しつけ」どころではなかったということです。村で育った子供はたまに都会に出ると挨拶の仕方も口の訊き方もろくに知らず、手も洗わずに飯を食う子供ばかりだったということで、親にしかられるのは、手を洗わないのではなく、使い終わった鍬を洗わないときだといいます。つまり個人の振る舞いよりも、食い扶持となる仕事道具の扱いの方で叱られるという構造で、これを持って「しつけ」というのか甚だ疑問だと思います。
確かに昔の日本はそんな状態で、家庭は教育をせず、地域というか村社会が独特の閉鎖的ルールで集団的人間形成を担ってきたといえます。
学校教育と家庭の教育が一致し始めたのは戦前の「新中間層」と呼ばれる階層の人々で、戦後の中産階級とほぼ一致します。
つまり、生活が豊かになり、中流意識が芽生え出すと、家庭での教育にも力がそそがれるようになったということです。
面白いことに1970年の調査でも家庭のしつけについて「昔の方がよかった」と答える比率が、そうでない比率の倍ほどもあったといいます。結局のところ「昔の方がよかった」は単なる幻想であり、平安時代の文献にもみられる「最近の若い者は・・・」というぼやきと同種であるということです。
実際、「殺人による検挙少年数の推移」は1960年代をピークに減少の一途をたどっているという数値が指し示されており、凶悪少年犯罪が増えているという印象はマスコミ報道の弊害であるとされています。
近年はしつけが衰退するどころか、「教育する家庭」が増え、史上最も「しつけ」や「家庭教育」に力点が置かれている時代であるという著者の力説には説得力があります。
問題としては、逆に家庭の外に教育の場がなく、学校であったり、塾であったり、スポーツ教室であっても、最終的な教育の責任者は親に帰着せざるをえない状態にあることだといいます。
例えば、息子の非行を憂いた父親が教育カウンセラーにまで相談に行き「親子の会話を大切にしてください」とアドバイスをしたがために、父親はますます息子に手をかけるようになり、逃げ場のなくなった息子がついに父親にキレたという悲劇が例題にされていましたが、これによく似たコメントを最近のニュース番組でも見たような気がします。
秋葉原事件の報道に対して「親子の会話のない家庭に、このような子供が育つ」「父親不在が原因」「なんでも話せる親子でないといけない」「親子の会話さえしっかりできていれば未然に防げた」などといい加減なコメントをよく聞いたものです。
根本的にこのような幻想が危険であると著者は述べています。
頼るべき者、相談できる者は確かに必要ですが、それを家庭内にだけ求めた時、もしその家庭が不和になれば何もかもが一気に崩れ去る危険があるのです。
となれば家庭内の小さなミスが、何か秋葉原事件のような重大な事件につながるのではないかという無用な不安までかき立ててしまいます。また社会全体が、子供の小さな素行の悪さをみるとそれを育てた親の全人格までを否定するような責任を求めているのではないだろうか?と著者はそんな警鐘をならしています。
確かに現在の教育やしつけをとりまく世間の見方は既にそのような厳しい冷徹な目で満たされています。
しかし、それはあくまでマスコミによる無用な不安の煽りであり、幻想でしかありません。
さらに個人における幻想にも注意を促しています。
「私の少年の頃には、素手でケンカした」とか「いじめられても自殺するものなんかいなかった」などとといって現代の少年がどれだけ危険かと認識するような発言がマスコミにも見られますが、これについても著者は、別のレベルの事象を比べて自分の過去を美化しているに過ぎないと指摘しています。つまり、報道されるレベルの衝撃的な事件と、平凡な自分の人生経験の一部を比べて「今の少年は危険」「昔はよかった」と決めつけているのです。そんな衝撃的な体験をもった人がそうそういても困りますよね。まったく納得のいく話です。
著者は最後に読者に向かって「完璧な親」を目指さない事を提唱しています。所詮、完璧な人間などいないのです。だから自分の子供を完璧に育てられるわけでもなく、一つのミスが重大な欠陥を生むわけでもないので、「完璧な親」像からの減点方式はやめ、できたことに対する加点方式でいきましょうという、親の心の持ち用を優しく示してくれています。
わたしはこの本を読んで、目からうろこが落ちるとともに、教育報道においてもマスコミ報道の稚拙さと大罪をかいま見たような気がしました。
結論としては、日本人のしつけはますます向上しており、家庭の教育力も史上最高潮に達しているということです。
現代の問題点は教育の責任の一手をすべて家庭が担おうとし、そして担いきれていないところにあるということです。そして世間もすべて家庭の責任に押しつけようとしている重大な危険性があるという問題点です。
それでいてもなお「家庭での父親の不在」原罪主義や「親子の会話」史上主義が横行しています。
しかし、これは無知なマスコミとバカな官僚どものネガティブキャンペーンでしかありません。
育ちのいい彼らは、家庭の教育力を崇高し、教育力のない家庭を攻撃するためにこのようなキャンペーンをうつのです。
それは教育熱心な母親が、素行の悪い友達を見つけて「○○くんと遊んではいけません」と注意することと同質です。
著者の警鐘は、このような排他的な教育観念の蔓延に対して鳴らされています。
そしてこのような排他的な社会構造がいつしか凶悪犯罪を生み、それに怯える社会を形作っていっているのではないでしょうか?
みんな、マスコミに騙されるな!


